康綺堂の本読み備忘録

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金田一耕助の復員ルート

横溝正史金田一耕助シリーズは、特に初期の作品は戦後間もない時期に発表されている為か戦地から帰還……復員が事件に深く関わっているものが多い。

名探偵・金田一耕助も復員兵としての経歴を持つが、そのことについて触れている描写は意外と少ない。私が把握している限りでは『獄門島』『百日紅の下にて』『犬神家の一族』くらいである。

 

今回は、金田一耕助の復員兵としての経歴から彼が戦地から日本へ帰還し獄門島へ至るまでのルートについての個人的な推測を可能な限り書き出してみたい。

 

まず、原作シリーズ内にて描かれている金田一耕助自身の復員について。

『獄門島』序盤において、金田一耕助は『本陣殺人事件』の後応召、最初の2年を大陸で、その後南方戦線を転々とし、昭和十八年から復員までニューギニアのウエワクにいたことが記されている。飢餓と病に脅かされるなか、戦場では遺体の様子を観察し死後硬直についての観察眼を鍛えていたようだ。そして日本への復員船の中で鬼頭千万太から依頼を受け、彼を看取る。

百日紅の下にて』の舞台は東京・市ヶ谷八幡にある佐伯邸跡。ニューギニアで死亡した友人の頼みを受け過去に起きた事件の真相について推理し、その後獄門島へ向かったことが書かれている。ここでの金田一耕助は復員服姿に南方焼けがあることから、復員直後であることがうかがえる。

犬神家の一族』では、ある人物が復員した直後に取った行動について、内地の情報を得るため収容所(引揚港内にあったという引揚者向けの宿舎のことか?)にそなえつけてある新聞に飛び付いたであろうことを、自身の経験を基に推理している。

以上が原作シリーズ内における描写だが、帰国した際の行動は他には何が考えられるだろうか?

『獄門島』では床屋の清公に、戦前東京に構えていた事務所は空襲で焼失した旨を話しており、『百日紅』の佐伯邸跡に向かう前か後に自身の東京における生活環境の現況を確認していたものと思われる。

東京から岡山の久保銀造宅を訪れるまでの間、どこかに立ち寄ったのかは作中記載がないため不明だが、獄門島に向かう船の中ではお馴染みの着物に袴姿なので必要最低限の衣服等はやはり久保銀造に預けていたのだろう。

これは小説ではなく引揚援護に関する記録や研究評論等からの推察だが、上陸した先の引揚援護局内では、復員に係わる処理(復員証明書の発行手続きや運賃等の受け取り等)の間、新聞で情報を得るほか、久保銀造宛に自身の復員報告と銀造の安否確認、また佐伯邸の位置確認等を行っていたのではないか。

 

金田一耕助が乗った復員船の入港先、即ち日本の地に戦後最初の一歩を踏んだ場所はどこか。史実と小説の記述を完全に一致させるのは困難(いや不可能?)だが、可能な限り考察してみよう。

復員・民間人の引揚げにおいては、もちろん各方面からの船が日本各地の港へ向けて手当たり次第に殺到したわけではない。各地に指定された引揚港に決まった地域からの船が(正確な入港日時は確実ではないにせよ)入港していた。

厚生省(現・厚生労働省)が昭和25年にまとめた『引揚援護の記録』に収録されている「方面別受入港一覧表」によると、ニューギニア方面からの船を受け入れていたのは主に浦賀、名古屋、田邊、大竹、佐世保であったとされている。

「絶対確実にここだ!」と断言するのは難しい。だが、原作の描写や金銭・交通状況を考えると一番可能性が高いのは、この中では一番東京に近い浦賀ではないかと思うのである。あくまで個人の推測であるのだが。(次いで主要引揚港であったという名古屋、田邊、大竹、佐世保……といったところか?)

 

つまり金田一耕助の復員から獄門島に至るルートは

 

ニューギニア・ウエワク→引揚援護港(浦賀?)→東京市ヶ谷八幡・佐伯邸跡→岡山・久保銀造宅→岡山・笠岡沖→獄門島

 

となるのではないか。

くどいようだが、原作小説と関係資料を基にしてはいるものの、あくまで個人の推測である。

 

以上、個人的な推測を書き連ねてみた。

金田一耕助シリーズにおける復員については今後も考察推察を重ねていきたい。

 

 

主な参考文献

横溝正史『獄門島』『犬神家の一族』『殺人鬼』(角川文庫版)

厚生省編『引揚援護の記録』(クルス出版)

田中博巳『復員・引揚げの研究』

若槻泰雄『戦後引揚げの記録』(時事通信社)