康綺堂の本読み備忘録

読んだ本の感想や探偵小説の考察等のブログです。

個人的「車井戸はなぜ軋る」メモ

※※横溝正史「車井戸はなぜ軋る」大下宇陀児「偽悪病患者」の真相・トリックに触れています※※

 

 

 

 

 

 

 

横溝正史「車井戸はなぜ軋る」の再読を繰り返している。初めて読んだのは14歳の師走。金田一耕助がほとんど登場せず、全編を覆うヒリヒリするような憎悪と恐怖と疑心暗鬼に圧倒……というよりドン引きし苦手意識を長らく持つことになる。だが、年月を重ね、改めて読み返すと、書簡体ミステリならではのミスリードと語り口の巧みさに魅了された。そしてまた、色々と思うことが多々浮かんできた。

今回は拙いながらも可能な限りまとめてみようと思う。

 

・書簡と語りについて

序章は「私」によるモノローグでK村と本位田家を中心とする三家の状況が丁寧に描かれており、この段階で読者は秋月家から本位田家への凄まじい憎悪を行間から感じることになる。「恐ろしい経験」「戦慄」「のたうちまわる苦悶」「絶望的な悲しみ」……と1ページの中に負の感情についての描写が詰め込まれており、金田一自身も「私」に事件について話す際「かれは暗い眼をしてこういった」という。

 

この物語は兄妹間の往復書簡という体裁を取っている。

兄妹間の書簡で進行するミステリといえば大下宇陀児昭和11年に発表した「偽悪病患者」がある。こちらはほぼ兄と妹の視点のみで描かれ、昭和11年当時の電話の仕組みが謎解きのカギになる等、都市部を舞台に独特の閉鎖空間が表現されている。「車井戸」とは逆で「偽悪病患者」では兄が探偵役である。兄は病気療養の為満足に動けず、妹からの手紙の他には新聞記事や知人からの報告などから推理し、事件が兼ねてから偽悪的な振る舞いをして周囲を心配させていた兄の友人・佐治ではなく、妹による計画犯罪であることを見抜く。

対して『車井戸はなぜ軋る』はというと、

本作は事件の関係者の一人、本位田鶴代が兄・慎吉に宛てた手紙に途中新聞記事が挿入され、鶴代による真相看破、慎吉による告白(遺書)という体裁で進行する。事件パートの大部分は鶴代から慎吉に宛てた手紙で構成されており、自然読者は鶴代と同じ視点で事件を追うことになる。仲の良い兄に送る私的な手紙という性質もあるだろうが、鶴代は自らが他人に抱く印象(好き嫌いなど)をストレートに記している。帰還直前まで尊敬し、心の底から安否を心配していた長兄・大助に対しても伍一との入れ替りを疑い恐怖心を抱くだけでなく、秋月りんや小野のおじさんこと小野宇一についても厳しい視線で書いている。それはミステリとして言うまでもないが、余程気をつけて読み込まないと自身の視点が狭まる――語り手による印象に引きずり込まれてしまうことでもある。『偽悪病患者』でも兄による友人・佐治への懸念が前面に押し出ていることが一種のミスリードとなっているが、『車井戸』では鶴代の一見無垢なようでいて厳しい視点がミスリードとなるわけである。

 

・復員兵

本作は戦後間もない昭和二十一年に発生した事件の話である。他の戦後横溝作品同様、復員兵が事件の鍵を握る存在として登場する。

戦傷により容姿の判別が非常に困難な為発生する入れ替り疑惑。唯一の手段である指紋鑑定を行おうとするが事件が発生し一時うやむやになってしまう。……と後年発表された『犬神家の一族』との共通点は度々指摘されてきた(ちなみに個人的には、遺体の運搬トリックは『犬神家の一族』での佐智の下り、あえて殺人犯の汚名を被る真相は真犯人の犯行を後から偽装する展開にそれぞれ昇華されているようにもみえる)。

本作での復員兵――本位田大助――の物語上の立場は「帰ってきたが為の悲劇」といえよう。傷つきながらも生還したが、自身も周囲も疑心暗鬼のただ中にあり、戦場と故郷で吹き込まれた話の真偽を確かめることすら出来ず、心休まるときは一時もなく、惨劇を引き起こしてしまう――。

「戦場」と「銃後」の、コミュニケーションの断絶。『獄門島』や『犬神家の一族』と同じく、終戦直後の復員事情をミステリに絡めながらこうも読後感が異なるのは、この、救われない、報われない「苦さ」があるからだろう。

 

金田一耕助の存在

「車井戸はなぜ軋る」は元々昭和24年にシリーズキャラクターが登場しない、いわゆるノンシリーズ作品として発表された(原型版では「なぜ」が「何故」と漢字表記)

その約10年後、単行本に収録する際に金田一耕助ものとして改稿された。原型版では伏せられていた資料の出所が、改稿版では金田一耕助から作者である「私」に渡されたものとなっているが、彼の登場は冒頭と最後だけで、「名探偵の影が薄い」と感じられる向きもあるだろう。事件に興味を持ち(おそらく誰から依頼されるというわけでなく独自で)再捜査をはじめ真相をある程度見抜くが、面会した慎吉から一連の手紙を受け取り身を引く。原型の『車井戸は何故軋る』自体ノンシリーズ作品として完成度の高い作品である。予備知識のない状態で原型版を読めばシリーズ名探偵の登場する余地はあまりないようにもみえるだろう。金田一耕助の名を冠した短編集に組み込まれる際、ストーリー展開的に不自然な形にならないよう加筆修正を行った結果……といえばそれまでだが、一方で、採用された名探偵が金田一耕助であるが故に考えを巡らせてしまうのも事実である。飄々とした、ひとなっこい微笑を浮かべる名探偵――。

 

以下、あくまで一個人として浮かんだ考えを可能な限り述べる。

「車井戸はなぜ軋る」は、ある村のある一族の崩壊を描いた物語である。先述の傷ついた復員者である大助だけでなく、本位田家を憎み続けた秋月りんや自ら友の罪を被って逮捕された小野昭治の行く末にも救いがあるわけではない。もちろん、兄たちの罪を見抜き死んでいった鶴代と手記を遺し死にゆく慎吉も。そう、だれ一人報われることのないまま物語は幕を閉じる。

確かに本作の金田一耕助は名探偵でありながら推理をしていないようにみえる。慎吉と面会する直前まで調査をし、ある程度推理を頭の中で組み立ていた様子だが一連の手記を目にして自ら手を引く。それは、名探偵の役割を自ら放棄したというよりも、(もちろん犯罪を憎み、犯人の企みにファイトを燃やす心を持ちつつも)いたずらに真相をあばきたてるのではなく、誰一人報われることのないままやがて広い世間では忘れ去られていこうとするものを掬いあげるようでもある。破局だけが描かれる読者にとっても辛い、現実的な物語。そこにある種の救いの手を差しのべるのが本作における金田一耕助という存在なのではないだろうかと私は再読の度に思うのである。

あくまで作者である横溝正史自身によるものではなく、本作が発表されたずっと後のものではあるのだが、金田一耕助を「事件の行く末を見守る役」「魂の救済者」と評する意見も多い。本作では特にその色合いが濃いように思えるのである。

この点については、今後他の点も含めて考察を深めていきたいと思う。

 

 

 

 

……………ところで。

作中序盤、本位田慎吉が妹の鶴代に文学者の素質を云々のくだりで、「『嵐が丘』のエミリ・ブロンテ」を持ち出しているのがふと気になった。これはただ単に、鶴代の立場を有名人に例えただけなのだろうか?

エミリ・ブロンテの生涯と『嵐が丘』のあらすじについては他のサイト等に譲るが、思い起こせば、『嵐が丘』も凄まじい心理闘争と復讐の物語である。『謎解き「嵐が丘」』等の『嵐が丘』の関連書によると、主人公・ヒースクリフの実の父親は、捨て子であった彼を館に連れ帰った先代主人・アーンショー氏その人ではないかという説があるそうだ。横溝正史がその説を知っていたかあるいは本編を読んで察していたかは定かではないが、この件を念頭に「車井戸はなぜ軋る」を読み返すと、本作の構想、特に秋月伍一の造形について『嵐が丘』が大なり小なり影響していたのではとも思えてくる。

秋月伍一の立場は秋月家の人間であると同時に、二重瞳孔を継いだ本位田大三郎の事実上の実子とされる。姉の秋月りんの思惑とは別のもの、同い年で同じ父を持ちながらあまりに格差のありすぎる現実、即ち本位田大助への憎悪と嫉妬が根底にあり、伍一は戦死しながらも、最終的に復讐は果たされることになる――ヒースクリフやキャサリンたちの立ち位置がすべて「車井戸はなぜ軋る」の人物たちに当てはまるというわけではない。しかしながら、一応の考察の余地があるとだけ今回は記しておく。

 

 

 

この「車井戸はなぜ軋る」という作品は、トリックや少女の感受性や人間関係の閉塞感だけでは語りきれないものがあるが、それは井戸の底を覗きこんだ時のような感情を覚える。井戸の底を覗く――すなわち本作を再読する度に、この戦慄に襲われることであろう。

 

 

参考文献

横溝正史『本陣殺人事件』(角川文庫)

横溝正史探偵小説コレクション3 聖女の首』(出版芸術社)

大下宇陀児『烙印』(国書刊行会)

廣野 由美子『謎解き「嵐が丘」』(松籟社 )

エミリ・ブロンテ『嵐が丘』(岩波文庫版等)

 

その他多数