個人的『蝶々殺人事件』メモ
※※※横溝正史『蝶々殺人事件』『本陣殺人事件』クロフツ『樽』ドゥーゼ『スミルノ博士の日記』についてネタバレがあります※※※
横溝正史『蝶々殺人事件』を再読したので少し。
○作品の印象
作品そのものの印象は、スバリ「華やか」である。歌劇――オペラ……芸能界をテーマにしている為か全体的に華やかな雰囲気で、時代設定は戦前・昭和12年頃の大阪・東京という「都市」の華やかさもあるのだろう。
・原さくらの遺体「登場」(「発見」ではない)
・劇団の人間関係
・未解決である流行歌手殺人事件の浮上
・第二の殺人と明かされるスキャンダルの真相
と次々に場面が切り替わり、まるでひとつの舞台を観劇しているような気分になる。
同時期に執筆・連載されていた『本陣殺人事件』が地方農村部における旧家の婚礼という厳かな儀礼を描いているだけに尚更対照的にも思える。
「原さくらはどこで殺害されたのか、東京・大阪間の移動、アリバイ偽装の方法は」というのが本作のメイントリックなのだが、
楽譜の暗号や男装の麗人(変装による偽装)時間差を利用した脱出トリック、そして日記による一種の叙述トリックと思い起こせばトリックの連続である。それらは「なぜそうしたか、そうせねばならなかったのか」という点の追求と解明が描かれ、エラリー・クイーンの作品をも連想させるのである。(実際本作の
終盤近くには、クイーンの国名シリーズでおなじみの「読者への挑戦」が三津木の語りで挿入されている)
○由利先生
由利先生こと由利麟太郎は、主に戦前・戦中期の作品で活躍した名探偵なのだが、角川文庫版(今回使用したのは昭和51年8月10日発行第11版)93~94ページにて三津木の語り(いわゆる地の文)で由利先生のスタンスが紹介されている。
先生は知っているのである。現代のような複雑な社会機構のなかで起こる犯罪捜査では、その最後の断案は個人の知恵が決定するとしても、断案の基礎となるべき、もろもろの材料の蒐集には警察網のひろい大きな組織をからねばならぬということを。(角川第11版94ページより)
由利先生シリーズは、戦後においては結局本作しか大人向け長編は完結しなかったのだが、戦後、由利麟太郎という探偵を描くにあたって改めて彼の探偵としてのスタンスを定義し直したものと思われる。
そして、この由利先生の探偵としてのスタンスは、『本陣殺人事件』にて言及されている金田一耕助の探偵としてのスタンス
「足跡の捜索や、指紋の検出は、警察の方にやって貰います。自分はそれから得た結果を、論理的に分類総合していって、最後に推断を下すのです。」(角川文庫版昭和50年12月10日発行第14版83ページより)
と似通ってはいまいか。つまりこの両探偵に共通するこのスタンスこそが、戦後作者である横溝正史自身による、自身が書く探偵小説における探偵像の表明ではなかったかとも思うのである。
○メイントリック
本作のメイントリックは、当世の流行り風に言えば「やることが多い」。
故に何度か読み返さないと移動やアリバイの全体像を把握するのに苦労する向きもあるかもしれないし、いくらなんでもやり過ぎでは……と思う向きもあるかもしれない。
東京→大阪へ遺体が運ばれたのではなく、犯人に乗ぜられた被害者が密かに来阪し、現地で殺害され、コントラバスケースに詰められる。砂と花弁とトランクによるカムフラージュと必要物品を別人物に運ばせるという偽装手段もさることながら、これを可能にしたのは被害者の性格と犯人のマネジャーという立場であった……こういった所々がカチリカチリとハマっていくカタルシスが見所といえよう。
○『樽』について
『蝶々殺人事件』は横溝正史自身があとがきやエッセイ等で語っているように、クロフツの代表作『樽』に刺激されて構想が練られた作品である。
『樽』では警察側が樽を確保し遺体を発見するまでがじっくりと描かれているのに対し、『蝶々殺人事件』は展開がスピーディーである(終戦直後の用紙不足による紙数制限もあるのだろうが)。
『樽』も『蝶々殺人事件』も構成は
遺体発見
↓
遠距離を移動しての捜査
↓
真相究明と解決(アクション付き)
である。
有栖川有栖氏が創元推理文庫の新訳版『樽』の解説で要約しているように、『樽』は計画殺人のようで実は突発的に事件計画が立てられて実行されている。
念入りに犯罪計画が練られていたという『蝶々殺人事件』のそれとは逆である。
そう、『蝶々殺人事件』はある意味『樽』とは逆のやり方なのである。
例えば
・実際に遺体入りの樽を発送『樽』
↓
・被害者を目的地におびきよせる『蝶々』
・罪を憎んでいる人物になすりつける
↓
・特に決めていない(強いて言えば藤本殺しの犯人?)
と、こういう風に。
両作品については今後も比較を実施していきたい。
○土屋恭三と日記
初読時には気づかなかったが、50代だったとは。日記での語り口は一種のブラックユーモアみたいなものだと思っていたが、由利先生によって日記の文章から本性……土屋の奸智さと卑屈さが読み解かれるのが印象的だった。
日記の記述者が犯人……さらには探偵と相棒が日記をひもとく形で話が進行するという構成はドゥーゼの『スミルノ博士の日記』を彷彿とさせる。『スミルノ博士の日記』でも「日記」という形式上、動機になることども・憎悪のあからさまな表記や肝心な部分の意図的な省略等があった。『蝶々殺人事件』における土屋の日記は、「あえて他人に見せる」ことを意識したものとなっており、マネジャーという立場――秘密をよく知るが故に日記に記述出来、そして秘密を守らなければならない役職なのに他人に見られる為の行動をしたことから疑惑の念を探偵に持たれるという――を活用した展開である。
『スミルノ博士の日記』は戦前期において小酒井不木の翻訳で読まれていたし、横溝正史も読んでいたようだが、自身の作品に巧みに活用したといえよう。
○原さくらという人
事件の被害者であり、本作における最大級の重要人物である原さくら。事件の根幹には、彼女の虚栄心、空想癖が根深く絡んでいる。
「とても空想力が強くて、空想していらっしゃるうちに、事実と空想の境界がわからなくなってしまう。空想からうまれた産物を、いつか実際あった出来事のように思いこんでしまわれる。――そういう方でした。」
(角川文庫第11版211ページより)
原さくらの性格について弟子である相良千恵子はこのように評している。これには原さくら自身のある体質と夫・原聡一郎との関係も重要な因子となっていたことが明らかになるのだが、一方で同時期に発表された『本陣殺人事件』において犯人の特異な性質がクローズアップされたのに対し、『蝶々殺人事件』では犯人よりむしろ被害者である原さくらのそれがクローズアップされた感がある……とするのはさすがに軽率が過ぎるだろうか。
さて相良千恵子はその原さくらの性格については更にトマス・ハーディーの小説『イマジネーティヴ・ウーマン』を引き合いに出している。『イマジネーティヴ・ウーマン』……現在書店で購入出来る短編集『呪われた腕』(新潮文庫版)には『幻想を追う女』の邦題で収録されている。この物語には、夫との関係が冷え込み、自身が憧れる青年詩人の面影を追い求めるうちに才能への憧れが慕情へとすり変わっていく主人公の姿が描かれており、『蝶々殺人事件』における原さくらの姿と確かに重なる。前述の『呪われた腕』(新潮文庫版)の翻訳者によるあとがきによると『幻想を追う女』は戦前より翻訳が幾度かなされており、横溝もどこかのタイミングで読み込み、本作に活かしたのだろう。
以上書き連ねてみた。
他にも小栗虫太郎との逸話や『本陣殺人事件』『蝶々夫人』との比較等にも思考を巡らせてみたいのだが、今回は一旦ここまで。
なかなか再読が進まず、個人的にやや消化不良気味だが、またまとめ直せたらと思う。
参考文献
横溝正史『蝶々殺人事件』『本陣殺人事件』『横溝正史読本』『真説金田一耕助』(角川文庫版)
『由利・三津木探偵小説集成』第4巻(柏書房版)
木魚庵・文/YOUCHAN・絵『金田一耕助語辞典』(誠文堂新光社)
トマス・ハーディ『呪われた腕 ハーディ傑作選』(新潮文庫版)
その他多数